のび太の第3の人生が始まります。

この世に生を受け、家族と過ごした高校卒業までが
のび太の第1の人生だとすれば、
名古屋の大学に入学して独り暮らしを始めたのが第2の人生。
今まさに、親元へ戻って第3の人生を歩み出そうとしている。




米国留学、東京で就職、名古屋に戻って水商売…。
振り返ってみれば、それなりに充実した第2の人生でした。




1987年9月15日に開いた店を、7月31日をもって閉店。
あと1ヵ月半で開店から26年の月日が経とうとしていました。




8月上旬は閉店手続き、中旬にタイへ旅し、
下旬にはマンションの部屋を明け渡して、9月1日に仙台へ…。




免許証・年金・保険等の住所変更から、公共料金の清算
お客さんや友人が開いてくれる送別会への参加。
夜の店を営業しながら日中は介護の仕事をしていて、
疲れるぅ〜! と言う日もありましたが、
今は、それ以上に疲労困憊ですわ。




これから先は母親との同居となり、介護の仕事をしながら、
母親の面倒も看るようになる訳なのですが、
となると、今までのように優雅な食事を楽しんだり、
楽しい旅の話をブログに書ける状況は望めず、
日々の介護の記事となると、個人情報はもとより、
愚痴や泣きごとばかりを書くようになる予感があり、
このブログも非公開とし、本当の意味での日記としたいと思います。
なので、これが最後の公開記事となります。




知人・友人・店の顧客の方々。
皆様から惜しまれながら閉店に至った訳ですが、
詳しい事情などを説明できずにお別れした方々も多く、
ここで閉店に至ったあらましを書いておこうと思います。




のび太の老後を考えた時、日本での年金生活は厳しく、
物価の安い所で暮らす事を考えていました。
その為に東南アジア諸国を旅して国民性や現地の生活を観察し、
イスラム教国は難しいなぁ〜とか、
一度の選挙で国政が大きく変わる大統領制はどうなの? とか、
どうも日本人は嫌われているなぁ〜とか諸問題を抱える国が多く、
ここなら良いかも?!と辿り着いたのがタイ王国でした。
立憲君主制であり、大多数の国民が仏教徒であり、
華僑の多いタイの食事は中国料理の影響を受けており、
物価が安く、親日的なタイでの年金生活を考えました。



数年間タイ語教室に通ってタイ語検定試験に合格し、
タイへの渡航歴は60回を越えていました。
姉にもそのような事情を伝え、親の面倒も姉任せ。
年金を貰うようになったらタイでの生活が始まるのだと思っていました。




事情が変わってきたのが東日本大震災の後からでした。
3・11と言われる東日本大震災の1週間後の3月18日。
親父が救急車で運ばれてから半日で他界してしまいました。
仙台市内は震災の影響で大混乱の状況にあり、
葬儀会館の広間は遺体で埋め尽くされ、通夜も告別式も出せず、
ガソリンが無くて霊柩車も動かない。
火葬場は数基を残して停止状態にあって荼毘に付す事も出来ず…。
東北ではドライアイスも無くなり、遺体の保存が難しい状況でした。




数日後に何とか都合がついた火葬場と霊柩車。 
沢山の遺体の中から親父の棺が葬儀会館から運び出され、
霊柩車に載せようとしていると、ボランティアのお坊さんが現れ、
「宗派が違うかも知れませんが出棺のお経を唱えましょうか?」と。
それは有難いと、その場でお経をあげて頂きました。
火葬場でも各宗派のお坊さん達がボランティアで待機しておられ、
お経を唱えて頂いてから荼毘に付す事が出来ました。





それからが大変。 我が家の菩提寺福島県浜通りにあり、
原発事故の影響で住職は疎開していて不在。
何とか探し出して長野に避難していた住職に連絡を取り、
戒名だけは付けて頂きましたが、墓への納骨はままならず、
未だに三段の祭壇に遺影と骨壷と位牌が家にある状態です。





震災・伴侶の逝去・納骨が出来ない…。
諸々の事情が重なり、独り暮らしになった母の精神状態は最悪。
人格が変わったかのような状況が半年間続きました。
やっと平静さを取り戻したかのように見えた母でしたが、
半年の精神的興奮状態の間に、物忘れ症状が進行していました。
認知性とまではいかないのでしょうが、お金の管理は難しくなり、
傍で暮らす姉が毎日母を訪ねて金銭や服薬の管理をする事に…。




そんな折、復興支援の財政分配のせいなのでしょうか?
遅々として進まなかった20年来の道路拡張工事が動き出し、
のび太の家が立ち退く事となったのです。




姉から相談を受け、85歳になる母の為に、
立ち退き補償金で今更家を新築しても仕方が無いので、
有料老人施設に入所させるか、近所のマンションでも購入するか?!
もっとも貴方が仙台へ来ると言うなら家を新築するけれど…との事。




のび太年金受給年齢まで水商売を続けていく自信も無く、
渡りに舟と言っては何ですが、新築の方向で話を進めました。




去年の5月の連休に仙台へ行った時に姉とも相談し、
55歳男性の就職となると、介護職ぐらいかなぁ〜と。
で、その職に就くかどうかは別として、取り合えず介護職講座を受講。
昨年の8月から、店を続けながら、週2回の訪問介護を始めました。




性に合っていると言うか、それなりに遣り甲斐があり、
利用者さんからも事務所からも信頼を得て、
介護職で生活して行く自信もつきました。




現在所属している会社は東証一部上場企業で仙台にも支店があり、
是非にも仙台支店へ転勤と言う形で来て欲しいとの事。
9月1日に仙台へ帰ったら、2日には人事担当者と施設長との面接。
出来るだけ早い時期に就業して欲しいとの連絡がありました。
この御時世に必要とされる存在で居る事は嬉しい限りです。




と言う事で、取り合えず9月から母との生活が始まり、
数年後には姉夫婦と姪夫婦の家に挟まれて我が家を新築と言う事に…。




震災前は、好きにしたら…と、タイでの老後生活を認めていた姉。
姉弟と言えども気を遣うから、仙台へは来るなと言っていた母。




震災後に伴侶を失い気を弱くした母は、「帰って来ないのか?」と。
「貴方が来てくれるなら助かるんだけど…。」と言い出した姉。
酒浸りの日々を脱出する良い機会だと考えたのび太
今年の正月に仙台へ行った折、8月前後に閉店&転居を予定しました。




その後、春には甥の伴侶が妊娠している事が判明。
10月出産予定との事で、産後の手伝いに姉が家を空ける事になった。
のび太が9月に移り住む事で、仙台に残される母の心配が無くなった。
これも偶然の事ですが、神様の思し召しだったのでしょうかね…。





友人知人が口を揃えて言う事が、「姉弟だからこそ大変な事も…。」
それは覚悟の事ですが、のび太が独身である事は救いでしょう。





姉とは8歳、義兄とは11歳の差があります。
のび太が中学生の時に姉と義兄の付き合いが始まり、
料理が苦手な姉に替わって、デートの弁当はのび太が作っていました。
高校生の時に姉が結婚し、料理指導の為、週末には仙台へ通っていました。
大学3年の時に姉家族が渡米し、幼い子供を抱えての外国暮しの憂いから、
義兄の依頼で大学を休学して渡米し、1年間姉家族と暮らしました。
朝が苦手で料理が苦手だった姉に替わって、皆の朝食を作っていました。
上司の家でのホームパーティーには子供同伴が許されない米国での事。
ベビーシッターとして甥・姪は勿論の事、近所の日本人家族の子供も預かり、
保育園さながらの夕御飯を作っていましたわ。(笑)




なので、姉や義兄とは、弟と言うか息子と言うか、
甥や姪とは、叔父と言うより歳の離れた長男のような…。




あの時とは事情も感情も違って来てはいますが、
姉家族と近所で暮らす事は、未経験で無い事が今回の決断にもなりました。
ましてや同居なら考えてしまいますが、隣同士で別棟でありますから…。




義兄には姉(のび太の姉の小姑)が2人いて、その姉さん方も、
のび太の事を「ちゃん」付けで呼んで可愛がってくれます。




90歳を超えた姉の姑は、今では記憶こそ失ってしまいましたが、
つい数年前までは、やはり「ちゃん」付けで呼んで可愛がってくれました。



30数年名古屋で暮らしても東北訛りが取れなかったのび太ですから、
これからの仙台での生活も、なんとかなるでしょう♪




今まで応援して下さった方々に感謝しつつ、
このブログを閉じたいと思います。



介護の仕事が楽しくて、母との生活が楽しくて、
姉家族との生活が楽しくて…。
そんな日が来ましたならブログを再公開するかも知れませんが、
それまで皆様、お元気でお過ごし下さいませ。 では、では…。