楽しい と 幸せ

今まで、「幸せぇ〜」 と感じた事があっただろうか?
あったのだと思う…。
その時は、それが 「幸せ」 と思ったのだろう。


今、「ささやかな幸せ」 を感じていて思うことは、
あの時は、「幸せ」 ではなくて、「楽しい」 だったのではないだろうか?


名古屋で過ごした37年間、楽しい事だらけだった。
4畳半の下宿暮らしも楽しかったし、
その後の旅行三昧の人生も、華々しいものではないが、
人に誇れるほどに楽しい人生を送れたと思う。


で、その時には、自分は 「幸せ」 だと思い、
恵まれていると感じていた。


その楽しく幸せと感じていた生活に終止符を打ち、
55歳と言う年齢で転居・転職して、
4勤交代の介護の仕事をしている。


日々排泄物の始末をし、認知症と向き合い、
安給料なのに体力的にはキツく、連続休暇など望めない仕事。
他人から言わせれば、「大変な仕事」 なのだろうが、
転職から4ヶ月を経て仕事を覚えた今、
2日間の連休の後は、「仕事に行きたい!」 と思うほどになった。


で、仕事から帰って来て、母の世話をしていると、
じわぁ〜と込み上げて来る、「幸せ」 を感じている。
今まで感じたことのない 「幸せ」 の感覚なのだ。


仕事から帰ったら真っ先に風呂を沸かし、
その間に夕食の支度をしながら母を入浴させる。
浴室で入浴の介助をしながら一日の話をする。
母を寝巻に着替えさせたら自分が入浴して浴室の掃除。
洗濯機を回しながら夕食を始める。
夕食後の片づけをして洗濯物を干し、
就寝時に合わせた室温のチェックと加湿器の給水などを済ませると、
自室に戻ってバタンキュー。


年寄りは朝が早いと言うが、のび太の母は9時ごろに起床し、
朝食は10時ごろになるので、
のび太の朝は、出勤の2時間前に起床して、
自分の食事と弁当を作り、食卓には母の朝食の用意をする。
この時期、牛乳などの冷たい飲み物ばかりでは可哀そうなので、
大小様々な保温ポットに御茶やスープを用意するのですが、
温かさが長持ちするように、一度ポットに熱湯を入れて、
それを捨ててから熱々の御茶やスープを入れるのです。
自分のコーヒーも、出勤前に飲むもの、通勤の車中で飲むもの、
休憩時に飲むものと、3つのタンブラーを用意するので、
朝の台所には5〜6個の保温容器が並びます。


早番は7時就業なので5時起床となります。
でも、降雪が予想される朝は、4時半起床です。
前日が遅番で帰宅が21時などと言う日の翌日が早番だと、
いつ寝るのぉ〜!! です。


それなのに、「幸せ」 を感じるって…何?!


浴室での母との会話。
食事をしている母の横顔。
いつの間にか炬燵で寝入っている母の寝顔。


可愛いんです。


認知症とまではいかないけれど、かなりの物忘れがあるので、
「これ、どうしたの?」 と尋ねると、
あれぇ〜? と言った表情で首を大きく傾げます。
その顔の周りには、「?」 記号が沢山見えるかの如く、
すっとぼけた顔を大きくかしげるのです。
その表情を前にしては、怒る前に笑って吹き出しちゃいます。


こう言っちゃ何だけど、大きなペットを飼っているみたい。
ペットのミニ豚を風呂に入れたり餌の世話をしたり…。
なので、たまに突っつきたくなります。
顔や身体を、ツンツンって突っつきたくなるんです。(笑)


そんな年老いた母の世話をできる事が 「幸せ」 と感じています。
大きな幸せではないにしても、じわ〜と心に沁みる幸福感があります。


後どのくらい、こうした暮らしができるか分からないけれど、
今の幸せがあればこそ、これから襲って来る苦労が乗り切れそうな感じがする。


で、最近思う事は、
名古屋では大いに楽しい人生を送らせてもらい、
仙台では細やかな幸せを味あわせてもらい、
いずれ独りで人生を過ごす時が来たら、
何を感じて生きれば良いのか…。
「充実」 かなぁ〜。
若かりし頃の楽しかった事と、今の幸福感を融合させて、
何かに達した感覚を持った充実した人生を送れたら良いなぁ〜。


おそらく、のび太にとっての 「充実」 は、
生きていく時間の中で、どんな些細な事にも、 
「意味」 を感じられると言う事かも…。


無意味な人生なんてない訳で、無意味と思うのは感性の鈍さ。
朝の光にも夜のしじまにも、「意味」 を感じながら生きたい。




今日は休みで母の通院に付き添ってきました。
そろそろ夕飯にしなくっちゃ…。


母は疲れたのか炬燵で小さな寝息を立てています。
石油ストーブの上の薬缶からは湯気が立ち上っています。
のび太にとって、幸せな光景の一つです。