明けましておめでとうございます

先ずは、随分と御無沙汰してしまった事をお詫びしなければなりませんね。
名古屋を離れて一年四ヶ月の月日が経ちました。 
アッと言う間と言えばそのようにも感じますし、
長かったと言えばそれもまたしかり…。
年始の御挨拶を兼ねて、
名古屋を離れてからの事をご報告させて頂きたいと思います。


八月末日に名古屋を離れ、
九月上旬は引っ越しの片付けや職場の面接をこなし、
九月下旬には新しい仕事が始まりました。
高校を卒業した一八歳から五十五歳になる迄の三十七年間
独り暮らしをして来たので、たとえ相手が母であっても、
生活を共にする難しさに不安がありました。
それに加え、仕事は全く未経験の職種であり、
昔なら定年退職の年齢での転職です。
「 不安 」の一言では言い表せない精神的な負担がありました。
しかしながら母が置かれた当時の状況や
自分の将来の事を考えれば選択肢は少なく、
仙台で就職し、新築される家に母と住む事が
最善策と思えたのでありますから、
どんな試練にも母の為、自分の将来の為、と
歯を食いしばって邁進してきました。


介護の仕事は大変です。いかに大変かをお伝えしたいのですが、
新年を寿いでいる時に尾籠な話も野暮と言うものですから
詳細は省きますが、仕事を覚えるまでは、
奈落の底を這いずり回る思いでした。
介護の現場は一つ間違えば命に係わる事もあるので、
新人に懇切丁寧に仕事を教える状況にはありません。
それでも言われていない、聞いていないは通用しないし、
手際が悪ければ、「どいてろ!」と言われてしまう。
次には存在そのものを否定され、空気のような存在として扱われます。
重要な申し送りも、「あなたに言っても分からないでしょ…。」
とでも言いたげな様子で私を無視し、
他のスタッフだけで共有するような有様でしたから、
尚一層仕事ができないと言う悪循環に陥ってしまう訳です。
「役立たず」という言葉がこれほど自分に似合っていると
思えた事は未だかつてありませんでした。
仕事を終えて最寄りの駅まで暗い夜道をトボトボ歩きながら
涙が出そうになりました。
そんな時にも辛い顔をしたら母が心配する…と心を奮い立たせ
笑顔を取り戻し、元気な声で「ただ今」と帰宅すると、
「お疲れさん」との母の言葉が再び私の涙を誘ってもいました。
結局は、「できる奴」と言う評価を得ないと、
この状況は何も改善しないと言う事であり、
それからは、無視するなら無視していればよい、
その内に無視できない存在になってやる。
との気構えで頑張りました。
とても孤独でしたが徐々に私の存在を認めてくれる人が増え、
一年を過ぎた夏の終わりには、「真面目な人」「几帳面な人」
との評価をされるようになり、
仙台で二度目の冬を迎えた頃には、「口うるさい」「細かい」
と煙たがられるほどに…。
「フッキー」との渾名をもらい、「フッキーに叱られるよ。」とか、
「明日はフッキーと一緒かぁ〜、仕事は楽だけど気を使うよねぇ〜。」
等と陰口を言われています。
と言う事で、やっと仕事には慣れましたが、
安月給には未だに慣れません。(笑)


私生活はと言うと、「幸せ」と言えるのだと思います。
名古屋で送った生活は、
「楽しい」と言う言葉が当てはまると思います。
バブル時代を名古屋で過ごし、
仕事柄もあって夢のような生活を送ることができました。
バブルが弾けてからも皆様の支えがあって、
充実した人生を過ごしたと思います。
食事・旅行・ゴルフ・芸術…
どれをとっても私の力では到底無理だったろう事柄を、
皆様に可愛がって頂き、人が羨むような生活ができたと思います。
その思い出だけで残りの人生を卑下する事無く生きていける気がしています。
たとえばあれほど好きだった寿司ですが、
仙台の寿司店に行きたいと思わないのです。
寿司ばかりでなく、外食をしたいと思わないのです。
高級寿司や料亭なら興味もありますが、
そこそこの店なら家で食べている方がマシ。
と思えるのです。名古屋・東京・大阪・京都・札幌…と、
美味しい物を食べ過ぎた。
仙台でそれらを超える店があるなら行ってみたいけれど、
そうでなければ焼いた鰯で十分。
私が作った料理を美味しそうに食べている母の顔を見ながらの食事が美味しい。
大袈裟な幸福感ではないのですが、
何か、ほのぼのとした充実感があるのです。
母の好きな草花を植えた庭に水遣りをしていると
窓から母が顔を出して、「綺麗だね。」と
目を細めるのを見て、「幸せだなぁ〜。」と感じたり、
母の失禁の後始末をしていると、
したくても諸々の事情で親の介護ができない人もいるのに、
母の介護ができる事に感謝し、
元気でいてくれる母に「ありがとう」と言いたくなる。
失禁の後始末をしていて
「ありがとう」と言いたくなるって事は幸せだなぁ〜って。

何か、ひどいマザコンのような気持ちです。
親元を離れて三十七年間、連休と言えば旅行に出かけてしまい、
正月も二日間ほどの滞在。
そんな私に何一つ小言を言わなかった両親。
父を亡くした今、思いっきり母へ恩返しをしているかのようです。
「親孝行、したい時には親はなし」と言いますが、
「間に合った!」と言う心境です。
名古屋での「楽しい生活」・仙台での「小さな幸福」。 
それなりに贅沢だなと感じています。


次は、これからの人生設計ですかね。
七月に役所の査定が入り、
今年度末までには立ち退き補償金が提示される予定です。
今年中には着工すると思いますが、
どのような家を建てるか頭を悩ませています。
仙台の冬を経験して、
寒がりの私には光熱費が最重要課題となりました。
年金生活でも、寒い思いをしなくて済む家」がテーマです。
当座は母と二人暮らしですが、
いずれは独居となりますので、部屋数は要らない。
コンパクトで効率的な空間に、
最高の断熱を施して…と言う事になります。
仕事としては、職場の人が「フッキーなら受かるよ。」と言ってくれる
ケアマネージャーの資格所得を目指そうかなって。 
現場で五年の経験が必須なので、まだまだですけどね。


最後に仙台の不満と自慢を。


不満 … 暑い夏がない! 
最高気温が三〇度前後で夏が終わっちゃいました。
八月下旬、銀行に行った時の事、
係りの方が三年前に名古屋から転勤してきた人で、
私が「このまま夏が終わるんですかねぇ〜。」と言ったら、
「終わるんですよ、仙台の夏。」
って言うので、暑い名古屋を思い出し、
二人で目を合わせえ笑っちゃいました。


自慢 … 春と秋がシッカリと、それらしいのです。
名古屋に住んでいる時には意識しませんでしたが、
仙台に暮らしてみたら春秋が長く、
一年がシッカリと4等分されていました。
春の花は寿命が長く梅雨入りまで咲き続けますし、
中秋の名月と言われても、
残暑の中で見上げた名古屋の名月が、
仙台ではススキがよく似合う肌寒さの中で
「お月見」をする事ができました。
東北の中でも寒さが緩く雪が少ない仙台は、
夏の暑さが苦手で、一冬に数回の雪掻きを
冬の風物詩と考えることができる人には
最高の気候なのかもしれません。


せっかく知人が仙台に居るのですから、
ぜひ足を運んで下さいませ。
今年も皆様にとって幸多き年になるよう、
心からお祈り申し上げて、年始の御挨拶と、
名古屋を離れてからの報告を終えたいと思います。