マラソンってドラマ

近所の桜通を通過するので、毎年沿道に出て応援している。
今年は、注目選手が多数出場する事もあって、例年に無い数の人出。
9Km地点で遅れ始めた高橋選手は、高岳交差点を通過する頃は、
先頭集団から大きく遅れて一人旅の状況にあった。


僕はギリギリまでTV中継を見ていたので、高橋選手失速を知っていたが、
早くから沿道に陣取っていた人達の中には、その事実を知らない人も多く、
先頭集団が目の前を駆け抜けると、「えっ! Qちゃん、居た?」 と、ざわめく。
暫くして、単独で大衆の目の前を駆け抜ける高橋選手。
周りから悲鳴にも似た声で応援が飛ぶ。 
「Qちゃぁ〜ん、頑張ってぇ〜っ!」 「高橋〜っ、頑張れぇ〜っ!」 
僕もその集団の中にあって、胸が張り裂けそうな思いで涙が出そうになった。


TV中継では、大声援しか拾わない集音マイク。
しかし現実は、手を合わせてお祈りをしているお婆さんが居る。
自分の孫を見守るように、こぶしを握り締めて見つめるお爺さんが居る。
小さな声を振り絞って声援を送っている小さな子供が居る。
自分の姿を投影しているのか、涙目で見守る体操着姿の女学生が居る。
声は届かなくても、心は届いているのかも。 でも、高橋選手の胸中は…、 


頑張れないよ・・・もう逃げ出したいよ。 だったかもしれない。


以前に五輪代表選手が言った。
「頑張って、頑張って、精一杯 頑張って日本代表になった。
 もうこれ以上頑張れないのに、人々はもっと頑張れと言う。」


先頭集団の選手達は、キリッと自分が進むべき路の遠くを見据えて走る。
高橋選手の往路は、逃げても逃げても追って来る自分の影と、
次から次へ浴びせられると 「頑張れっ!」 の声援に追い立てられ、
復路は、追っても追っても決して抜く事ができない自分の影に視線を落とした。


彼女は何を考えていたのだろう? 何を思っただろう?
あのサングラスの中の目には、涙があったのだろうか? 
闘魂がメラメラと燃える目の輝きがあったのだろうか?
どんな気持ちがあっても、あの状況と声援に押しつぶされていたに違いない。


地元出身の高橋選手を応援する人々に、優しい気持ちを感じたし、
素直に頑張って欲しいと言う応援に、皆の暖かい気持ちも伝わって来た。


高橋選手にとってもそうであったに違いない。
だからこそ辛かったと思う。 地元だからこそ・・・皆の心が温かかったからこそ。


視線を落としながら走った30Km は、高橋選手にとって長い道のりであったろうし、
これからの人生にも大きな意味を持った名古屋での走りだったと思う。


毎年のように沿道で応援しているが、こんな気持ちで感動した事は無かったが、
今年の箱根駅伝を沿道で応援していた人達は、選手の失速を目の当たりにして、
TV観戦では得られない感動と、自分の見に置き換えて辛い思いをしたのでは?!


観戦を終えて家に戻る短い距離は、僕にとって長い路となり、
僕だったら走れない・・・僕だったら棄権している。と思った。


でも、棄権して残されるものは何? 完走して得られるものは何?
皆、それを知っていてゴールを目指しているのだろうか?!
壮絶なドラマに、「頑張れ。」 としか言えない僕だけど、
選手の走りから、色々な事を考えさせれられてこそ、
選手に対して、「有難う。」 と言えるのかも知れない。